理系人間の集まりである獣医師の中にあって、文芸派!?を自認するワタクシめは、実作者としての立場から、現代日本の短詩文芸に対して、一角の意見を持っているわけであります。
小説・演劇などには、「悲劇」と「喜劇」という風なジャンル分けが一応ありますね、「ジャンル」という言葉は評論家の使う言葉でして、実作者としてはそんな分類は創作した後の結果でありどうでもいいのですが、ここではちょっと評論家風に、自分のこしらえている物を外側から眺めてみたい。
端的に言いまして
伝統芸能には例えば「能」という悲劇と「狂言」という喜劇がペアで存在している。
例えば「短歌」という真面目な文芸に対して「狂歌」というお茶らけた文芸がある。
例えば「俳句」という風狂な文芸に対して「川柳」という粋な笑いの文芸が存在する。
では・・・
「漢詩」という美しく崇高な文芸に対応する砕けた笑いの漢文詩はあるのだろうか?
これがどうも見当たらないんだなぁ
「漢詩」っていろいろ規則ごとやらなんやら、千年も前の唐の時代に
李白先生や杜甫先生らが頂点を極めてから、それがあまりにも完成されて
完璧に美しいもんだから、それ以降の人が、その崇高な美しさに畏れおののき
その完成されたものを守ろうとしすぎているのではないのかな
おかげで、現代の日本ではさっぱり漢詩実作者の裾野が広がらない
漢詩の鑑賞者はいても実作者がいない
真面目な杜甫先生はどうか知らないが、豪放磊落な李白先生は
雲の上できっと嘆いているに違いないと私は思うんだけどなぁ
漢詩を作るにあたって一番大切なものは、小難しい形式などではなく
詩を叫びたいという「魂」のはずなのだっ!!
 
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