かねてから気になっていた句集『無量』を購入して読んでみた。

 

この句集は、今年の北海道新聞・俳句賞佳作に選ばれた句集である。

 

image著者の五十嵐秀彦氏との面識は無いのだが

 

以前からFacebookで友達になっていただいて

俳句関係の情報をいつも興味深く読ませてもらっているので

今回の句集の上梓とその受賞の報を知って

 

ぜひとも読みたい句集だと思ったのだ。

 

読み始めたら、予想以上に面白く、1日たっぷりと充実した休日を過ごすことができた♪

 

ほぼ全句にわたって五七五の調べが整っていて大変読み易く

 

難しい言葉もあまり使われていないので

 

最後まで、スムーズに読み終える事ができたのだった。

 

早速、私がいい句だな、と思った句を挙げてみる。
 

 

  ふたり旅して一鉢の櫻草

 

  莨(たばこ)火のいつか消えたる余花の雨

 

  雪原や木端微塵の風眩む

 

  一丁の斧の柄朽す樹氷林

 

  ゆったりと一筆箋の花便り

 

  一睡の花の気配とともにあり

 

  雪渓の水音星を散らしけり

 

  遮断機の竿突きささる鰯雲

 

  足跡のあをき水脈(みお)ひく樹氷林

 

  秒針の速度牡丹雪の速度

 

  山門の冥(くら)ききざはしほととぎす

 

  秋櫻摘むその手より暮れて来し

 

  外套をまとひちひさき闇まとふ

 

  積まれゐるカフェの灰皿日脚伸ぶ

 

  咳こぼすひとりの刻をひろびろと

 

  氷湖厚くみなぎるもののありにけり

 

  春宵や短波ラジオの向きを変へ
 

 

取り合わせが飛躍的だったり、仏教用語を使っていたり、斬新な感覚の句も結構あったのだが

 

そういう句よりもやはり、私がいい句だなと思ったのは

 

季語がよく働いて、季題(主題)が明瞭にうたわれていて

 

具象性があって、写生的で、現実的で

 

一読して情景が誰にでも伝わってくるような平明な句だった。

俳句は言葉や言い回しが新しいから良いというものではない、と私は思っている。

 

もっとも、作者は現代俳句協会に所属する気鋭の俳人であるから

 

伝統俳句協会に所属して花鳥諷詠などを勉強している私が好むような

 

そんな傾向の俳句を五十嵐氏が好むとは思われず

また、そんな句を目指して作句されている訳はないと思う
()


その証拠に、こんな意味不明の句も
2句あった。
 

  然らぬだに傾く春の星座かな

 

  暗室を出し眼木の芽をさそひけり
 

 

この2句は、文法的にも変で、ミスプリかとも思ったが

 

あとがきに

「言葉それ自体を壊そうとしてみたり・・・あえてそれはそのまま収載することとしました。」

 

とあったので、さすが現代俳句系の作家だと思って納得した。

そんな作家が詠む俳句でありながら

私がいい句だなと思う句が沢山有った事は嬉しかった。

次に

この句集を読んで思ったのは

 

忌日を詠んだ句が多い、という事だ。

 

掲載句が全部で300句ある中で、人の忌日を読んだ句が10句もあるのは

 

一冊の句集としては、かなり多いのではないだろうか。
 

 

  自転車に青空積んで修司の忌   (寺山修司、54日没)

 

  糸瓜忌や百年生きるはかりごと   (正岡子規、919日没)

 

  三鬼忌の海に翼を見て帰る    (西東三鬼、41日没)

 

  石乗せて熱きてのひら櫻桃忌   (太宰治、613日没)

 

  三鬼の忌他人ばかりの靴ならび  (同・三鬼忌)

 

  虚子の忌の飛行機雲をくぐりけり  (高浜虚子、48日没)

 

  詰襟の少年濡るる安吾の忌     (坂口安吾、227日没)

 

  当つる掌に胃の腑の疼く漱石忌   (夏目漱石、129日没)

 

  食堂の傾ぐ丸椅子櫻桃忌      (同・櫻桃忌)

 

  遊行忌(ゆぎょうき)や月光譚を巻き終へて  (一遍上人、823)
 

 

忌日がそのまま季題になるような著名人に対して

 

作者の思い入れは相当に深いようである。

なかでも、寺山修司や西東三鬼の忌日を詠んだ句は明るく肯定的で

対して、正岡子規や夏目漱石の忌日を詠んだ句は暗く否定的に思えた。

 

忌日をこれだけ詠めるというのは
 

きっと、死者と心で会話(存問)をよくしているからなのだろう。

 

その傾向は、句集の後半の句に見られるように

 

作者のお父様が亡くなった事で、ますます深まっているように思う。
 

 

  五月雨や父なきときを母とゐて

 

  すがりつくいのちのかたち雪蛍

 

  生き死にを肴にしたる鳥曇

 

  いつかゆく國の白薔薇けふの供華

 

  幻影となり父の声雪の声

 

  かなしみにふれんと雪の穴を掘る

 

  夏蝶のまつはれる道父を訪ふ
 

 

あの世のお父様への存問・・・


まだこの世に父が健在な私には

 

今のところ、これくらいの鑑賞が精一杯だ。

 

最後に

見逃せなかった句を4つほど挙げておきたい。
 

 

  真夏日の古書肆(こしょし)の棚に虚子の貌
 

 

真夏の古本屋の棚に虚子の本が並んでいる景・・・
 

 

  下駄なんか履いている人ほととぎす
 

 

ホトトギスの声がする所で下駄など履いている人は今どき珍しい・・・

 

この句は、私を含め

ホトトギス誌を購読してそこへ投句している人たちに対する問いかけ(存問)ともいえる御句。

 

古いねぇ、と言わんばかりの揶揄が隠れているような気がしてならない()

 

そして


  現代と書き野遊びに出でにけり

 

  一代の咎あれば言へ沙羅の花
 

 

主宰一代の個性が強く、継承されにくい現代俳句系の集団に対して、文句があるならば言え!

 

伝統俳句系の集団の代々の主宰継承とて盛者必衰、しょせん諸行無常ではないのか?

 

そんなことをバッサリと言い放っているような御句・・・

悠然と自分の俳句の世界を詠み上げていて

なんだかとても

潔いのだ。

以上4つの句の解釈と鑑賞は、ピント外れかもしれない。

でも、私にはそのように伝わって来るのだった。

そして、この件に関して、若輩者の私には


ちょっと異論・反論が有るわけで・・・

ともあれ

『無量』という句集を読んで

 

私の中で、五十嵐秀彦氏の存在は

ますます大きくなるばかりである。

 


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