「このお茶のペットポトルに書いてある英語の俳句って、なんか変じゃなでいすか? 訳した句のほうも字余りだし。」

うちの診療所に来ていた実習生がそんな事を言いだした。

最近は職場の同僚からも、俳句を詠む奴として知られてきた私は

コメントを求められたので

「うーん、面白い詩だけど、ちゃんと575になってないしねぇ・・・俳句としてはまだ未完成じゃないのかねー。」

などと答えておいた。

伊藤園のお茶ボトルのラベルにはいつも、新俳句というものが書いてあって楽しませてくれる。
 
そこに、このごろは英語の俳句なるものが登場することがある。

思い浮かんだ詩心を、短い英語のフレーズで詠んであり

その隣には、日本語に訳した句が添えられている。

内容は、花鳥風月の四季を詠んでいるようであり

それを、英語の俳句と名付けて載せているようだ。

これは大変面白い試みであると私は思った。

「英語俳句」?!というものが 、新しい短詩としてこれから盛んになるのかもしれない。

imageただ

この伊藤園のお茶ボトルにあるような「英語俳句」?!をもって

俳句が世界へ広まりつつあるとか、俳句が国際化しているとか

そのように考えるのは

大きな勘違いではないのかな、と私は思っている。

英語を使って俳句を詠もうとする試みは面白いが

それはただ、俳句を「英語化」しているというだけであり

決して、俳句を「国際化」したことにはなっていない。

そもそも、俳句を英語化(英訳)する事は非常に難しく

いわんや、俳句を英語で詠むなどというのは、大変な無理がある。

英語では575の調べにはならないだろうし

英語の季題(季語)という共通認識はどこにも無い。

英語の歳時記というものも、一般に認められたものは無い。

英語で俳句を詠もうとする試みは

たちどころにそんな壁に突き当たるはずだ。

それでも、あえて 

その壁を破ろうとして作ったならば

その作品はもはや俳句ではなく

新しい英語詩であろう。 

俳句を「英語化」した新しい英語詩の誕生は

それはそれで大変結構だと思う、が

それは、俳句の「国際化」とは全く違うものである。

俳句の進化・発展の可能性は、なにも「英語化」ばかりではない。

俳句を「中国語化」したり「ロシア語化」したり「フランス語化」したりして

新しい中国語詩や、ロシア語詩や、フランス語詩が生まれるのも、また面白いと思う。

しかしそれらも全て、新しい外国語詩の誕生ではあるけれども

それは、俳句の「国際化」とは全く違うものである。

では

俳句の「国際化」とは何か。

それはきっと

「日本の俳句を愛し、理解した外国人が

日本語を学び、日本語で俳句を詠む」

という事だと思う。

アメリカ人や中国人やロシア人やフランス人がもっと日本にやってきて、日本語を学び

彼らが、我々と同じように日本語で俳句を詠み

我々の開く句会に参加して、日本語で句座を囲んだり

それぞれの母国に戻って、日本語で句会を開くようになれば

それが本当の俳句の「国際化」である

と、私は思う。 

俳句は、日本語による文芸であり

日本語で詠まなければ俳句ではない

と、私は思うのである。 

 
生活・文化 ブログランキングへ