「形態学に立派な理論は無い。ノーベル賞もない。・・・元来、形に証明は無い。自明があるだけである。」「脳は、顕微鏡的に見れば、神経細胞とグリア細胞、これに外からやむをえず入り込んできた血管という、三要素から成る。他にはなにもない。ないから不思議である。」
養老孟司氏の
「唯脳論」・「カミとヒトの解剖学」そして「バカの壁」
の3冊。
解剖学者だから当然かもしれないが、これほど、物事を良く見ている人はいない、と感銘した。
「一般に自然科学は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる。」
「人文科学や社会学の人たちは、脳と言えば自然科学の領域だと思っている。自然科学もなにも、そう思っている考え自体が、自分の脳の所産ではないか。・・・要するに、あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。それなら、脳はすべての科学の前提ではないか。」
「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である。」
「自分の脳のことを忘れるのは、『客観的な』科学者には、きわめてありがちな傾向である。」
考えている理論やデーターの測定などの科学的な思考と態度が、自分の脳の所産であることを、忘れるというフレーズが
この3冊の本の中に、何度も出てくるのだ。
さらに養老氏は
心すなわち精神は、脳のひとつの機能であり、なにも特別な神聖なものではない、という。
「脳を解剖したら、そこに心が含まれているのか。」
という意見に対して、養老氏は
心臓の解剖を例に挙げて、こう述べる。
「循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、『循環』が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない・・・心臓は『物』だが、循環は『機能』だからである。」
「心、すなわち精神は脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。したがって、心臓という『物』から循環という『作用』ないし『機能』が出てこないように、脳という『物』から『機能』である心が出てくるはずがない。」
つまり、脳も他の臓器と同様であり、脳という構造と、心という機能がある、というわけだ。
そして、ヒトの心を主に扱う宗教や宗教体験について、養老氏はこう述べる。
「若い頃は神の存在についてよく議論した。しかし、いまでは問題にすることはない。五万年前から神はいたから、いまでもいる。それを幻想と呼ぼうが何と呼ぼうが、ヒトという種が、神の概念を抱えて生きてきたことは間違いない。神の存在は、いわばヒトの属性である。いわゆる神秘的体験も同じことである。」
ヒトの脳は、五万年前頃の化石から、ほとんど変化はしていないらしい。したがって、その機能として、ヒトの心に五万年前から神の概念があったのは間違いない、と養老氏は言っているのだ。
すなわち、神もまたヒトの脳の所産であり、ヒトはしばしばそのことを忘れる、のだ。
傍線を付けながら、一読しただけでは私の読解力では頼りないけれど、繰り返し似たようなフレーズが出てくることから、きっとこの辺が唯脳論の基本になっているようだ。
三冊のうち「唯脳論」がその総論を述べたもので、「カミとヒトの解剖学」はそれよりも実例の解説が多く、各論的である。
また、ベストセラーになった「バカの壁」は、前二冊より砕けた表現でさらっと書かれているが、先に前二冊を読んでからだと、ちょっと物足りなさを感じる。
しかし「バカの壁」には、養老氏の教育者としての考え方が強く出ていて、読み手の心を掴んで離さない魅力がある。
さて・・・
ではこの唯脳論に立って、我々の畜産の世界を眺めたら、どんな世界が見えてくるのだろうか?
ちょっと脳が疲れたので、この続きは次回に・・・(笑)










「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」とても意味深な言葉ですね。何か恥ずかしくなります。続きを楽しみにしています。