私は、唯脳論を参考にしながら、畜産現場における「宗教」について書こうとしているが
宗教は世界中に、じつにいろいろある。
そこで、私の取り上げる宗教はとりあえず
日本神道、仏教、キリスト教、の3つに絞りたいと思う。
それが私の身の回りの主な宗教だと思うからだ。
宗教は、ヒトの心、精神、魂、霊、といったものを扱う。
ヒトには、形態としての「肉体」と、その機能としての「心」がある。
ここまではたぶん、神道も仏教もキリスト教も、異論はないだろう。
さて、では、ヒト以外の動物、家畜はどうだろう。
形態としての「肉体」が存在するのは、誰も否定できない。
その機能としての「心」の存在はどうか。
これもおそらく、3つの宗教のどれからも、異論はなかろうと思う。
動物にも「心」があるのだ。
動物にも、自らの意思があり、自己意識のようなものは
程度の差こそあれ、たぶんあるだろう。
さて、では
ヒト以外の動物、家畜において
「魂」や「霊」はどうだろう。
ここで、キリスト教は『ない』、というだろう。
キリスト教では、ヒトだけが神から「魂」や「霊」という神秘的な物を植えつけられた存在だからだ。
西洋人は、「心」すなわち「mind」というものは科学的に解明できると考えているらしい。
しかし、「魂」や「霊」すなわち「soul」や「spirit」は、神秘的なもので科学的に解明するのは不可能だと考えているらしい。
キリスト教においては、ヒト以外の動物に「心」はあるが、「魂」や「霊」は『ない』のだ。
キリスト教において、ヒトと他の動物との間は、ここで完全に分断されている。
したがって、家畜に対して慰霊をする、という発想はなく
家畜をヒトに与えてくれた神に感謝する、謝肉祭が行われる。
西洋人の脳は、そういう考え方で、家畜を見ているのである。
これに対して・・・
神道や仏教は、家畜に「魂」や「霊」は『ある』、というだろう。
その証拠に、われわれは「畜魂」という言葉を何の疑いもなく使う。
また「一寸の虫にも五分の魂」などという言葉もある。
ヒトの前世が
動物だったりする
輪廻の世界が存在する。
ヒトと動物との間に
キリスト教のような決定的な断絶は、ないのだ。
写真は
高さが5メートルはあろうかという
立派な畜魂碑。
我が診療区域内の
家畜共進会場に建っている。
当然、年に一度
この碑の前で
家畜の慰霊祭が行われる。
我々、東洋人の脳は、そういえ考え方で、家畜を見ているのだ。
宗教は世界中に、じつにいろいろある。
そこで、私の取り上げる宗教はとりあえず
日本神道、仏教、キリスト教、の3つに絞りたいと思う。
それが私の身の回りの主な宗教だと思うからだ。
宗教は、ヒトの心、精神、魂、霊、といったものを扱う。
ヒトには、形態としての「肉体」と、その機能としての「心」がある。
ここまではたぶん、神道も仏教もキリスト教も、異論はないだろう。
さて、では、ヒト以外の動物、家畜はどうだろう。
形態としての「肉体」が存在するのは、誰も否定できない。
その機能としての「心」の存在はどうか。
これもおそらく、3つの宗教のどれからも、異論はなかろうと思う。
動物にも「心」があるのだ。
動物にも、自らの意思があり、自己意識のようなものは
程度の差こそあれ、たぶんあるだろう。
さて、では
ヒト以外の動物、家畜において
「魂」や「霊」はどうだろう。
ここで、キリスト教は『ない』、というだろう。
キリスト教では、ヒトだけが神から「魂」や「霊」という神秘的な物を植えつけられた存在だからだ。
西洋人は、「心」すなわち「mind」というものは科学的に解明できると考えているらしい。
しかし、「魂」や「霊」すなわち「soul」や「spirit」は、神秘的なもので科学的に解明するのは不可能だと考えているらしい。
キリスト教においては、ヒト以外の動物に「心」はあるが、「魂」や「霊」は『ない』のだ。
キリスト教において、ヒトと他の動物との間は、ここで完全に分断されている。
したがって、家畜に対して慰霊をする、という発想はなく
家畜をヒトに与えてくれた神に感謝する、謝肉祭が行われる。
西洋人の脳は、そういう考え方で、家畜を見ているのである。
これに対して・・・
神道や仏教は、家畜に「魂」や「霊」は『ある』、というだろう。
その証拠に、われわれは「畜魂」という言葉を何の疑いもなく使う。
また「一寸の虫にも五分の魂」などという言葉もある。
動物だったりする
輪廻の世界が存在する。
ヒトと動物との間に
キリスト教のような決定的な断絶は、ないのだ。
写真は
高さが5メートルはあろうかという
立派な畜魂碑。
我が診療区域内の
家畜共進会場に建っている。
当然、年に一度
この碑の前で
家畜の慰霊祭が行われる。
我々、東洋人の脳は、そういえ考え方で、家畜を見ているのだ。










違って来ます。定住し栽培した植物の種子などを
栄養源とするか渡り歩いて動物を栄養源とするか。
それは縄張りを確保し協調を重要視するか、常に対外へ
戦闘的な意識を持つかにも関わって来ます。
牧畜民族は動物の血をも重要な栄養源とします。
農耕民族から見れば残虐と思われることが日常
行われています。
その戦闘的残虐的な意識を持たざるを得ない民族達の
中に必然的に生まれたがキリスト教ではないか。
その教えを一教科として学んだ私(仏教徒)の
キリスト教感です。
行き絶え絶えの肺炎症状の子牛。
苦しむ姿が可哀想とショットガンで頭ぶち抜くのか
死に至るまでじっと待っているのか。そこに民族性が
出ています。
ところで今の草食性男子と呼ばれる農耕民族の若者たち。
いずれ世界中の牧畜民族に食われてしまうのでしょうか。